2024/08/23 15:08


こんにちは。

僕、コーヒー好きなんですが皆さんお好きですか?

※好きと言ってもコーヒーの種類(知識)や味の違いがはっきりわかる男ではありません。(そうでありたかった)

昔はミルクコーヒーじゃないと飲めませんでした。ちなみに雪印コーヒーが大好きでしたね。

しかし、いつの頃からか背伸びをするようにブラックコーヒーにチャレンジして今では常飲しています。初めて飲んだ時は苦いしか思わなかったですねぇ。それが段々と美味しい!苦みさえもいい!なんて。

そんなことを思いだしてからは毎日飲んでますね。飲まないと一日が始まらない感じというか、そわそわしますね。

なにかこの症状ってお洋服にも通ずる部分ありそうな気がしませんか?

単に中毒症状という言葉では片付けれない。

片付けたくないが正しいかな。

ファッション中毒は確かですが、もっと明確なものがありそうじゃないですか。

 

「一杯のコーヒーで始まる一日」

 

 そんな言葉はないのですが、「コーヒーシチュエーション」って言葉があってほしい。

言葉の通り、コーヒーのシチュエーション。

飲む場所、環境、状況によって大きく左右されませんか?

例えば、朝ご飯終わりの一杯。それも粉末の簡易式コーヒー。

暑い日に飲むセブンイレブンのアイスコーヒー。

近所の喫茶店に行って店内に流れるジャズを聴きながら飲むコーヒー。

例に出したシチュエーションだけでも、かなり感じ方が違うはず。

味は勿論、心境とかも。

服なんかでもそうなんじゃないかなって。

今ではインターネットでタップするだけで家にいても買えちゃう時代です。

そんな時代の最中、足を運んで古着屋にいって買うお洋服。

頑張って貯めた給料で百貨店にいって買うお洋服。

様々なシチュエーションがあるからこそ、前記したコーヒーのように「ファッションの"味"」が変わってきますよね。

消費行動について書きましたが、他にも沢山ありますよね。

アウトフィットなんかに関してもそう。

友達と一緒に海へ行く格好。

ちょっとコンビニまでの格好。

初デートに着て行く格好。

勿論TPO的なアウトフィットもあるとは思いますが、それだけではない精神的な作用なんてものもあったり。

"ファッションシチュエーション"

外部だけではなく内部も。

ファッションの味わい方。

 

「一着のお洋服から始まる一日」

 

 寺田寅彦さんはコーヒー哲学序説で仰る。

『自分がコーヒーを飲むのは、どうしてもコーヒーを飲むためにコーヒーを飲むのではないように思われる。

宅の台所で骨を折ってせいぜいうまくだしたコーヒーを、引き散らかした居間の書卓の上で味わうのではどうも何か物足りなくて、コーヒーを飲んだ気になりかねる。

やはり人造でもマーブルか、乳色ガラスのテーブルの上に銀器が光っていて、一輪のカーネーションでもにおっていて〜(略)

正常のコーヒーの味は出ないものらしい。

コーヒーの味はコーヒーによって呼び出される幻想曲の味であって、それを呼び出すためにはやはり適当な伴奏、もしくは前奏が必要であるらしい。〜(略)

芸術でも哲学でも宗教でも、それが人間の人間としての顕在的実践的な活動の原動力としてはたらくときにはじめて現実的の意義があり価値があるのではないかと思うが、そういう意味から言えば自分にとってはマーブルの卓上におかれた一杯のコーヒーは自分のための哲学であり宗教であり芸術であると言っていいかもしれない。』

 まさにそうなのかも。

ファッションとして言葉を入れ替えてみます。

『ファッションをしているのは、ファッションをするためにファッションをするものではないような気がする。ファッションの味は、ファッションによって呼び出される幻想曲の味であって、適当な伴奏、もしくは前奏が必要であるらしい。』

僕たちが何気なく袖を通す一着のお洋服。

自身が最高の一杯を嗜むようなもので、最高のファッションの為の前奏。ある種のシチュエーションを考えて着ているのかもしれませんね。

一着のお洋服や、お買い物、スタイリングなどで獲得するシチュエーションの「プラグマティック」

 

「コーヒーがなければ、私にはパーソナリティなどないだろう」

-David Letterman

 

 今の時代だからこそ、"余計に"ファッションの重要性があるはず。きっと。

様々な一杯のコーヒーを味わうように。

一着から始まる"ファッションの味"を一緒に楽しんでいきましょう。

ナードに。そして"適当"に。

自身が織りなす味と香りを楽しみながら__

優雅な卓上で。

 

 「ファッションの焙煎」

 

Mozzie