2024/08/23 15:07


こんにちは。

最近暑くて暑くてたまりませんよね。

ここ最近のブログでは、「暑い暑い」ばかり言ってる気がします。

でも、仕方ないですよね?この暑さ。

敵いません。

暑い日に暑いと言う。

なんとも平坦なこと言ってますね。

暑さに囚われている。いや、表現方法は自由なのだから、囚われているのは自分であって暑さではないのかも。

 

 「自由な囚人」

なんともまあ矛盾しているように聞こえます。

範馬刃牙でいう、ミスターアンチェインことビスケット・オリバ。

まああの人は本当に自由ですね。

囚人でありながら、犯罪者ハンター。

世界で最も自由と称されます。

彼のように自由はないかもしれないですけど、私たちはある種、何かしらに囚われ、何かしらの自由を与えられている。

そんな気がします。

 

 ファッションにおいて、正解(世間的になのか、自己的なのか)がないと自己理解している。のにも関わらず不正解(正解ケースと同様)と思っている。

自己判断していると思っていても実は、あの人にこう思われたらどうしよう。と不安を抱えている時だってある。

これとこれはなし!これはこうだからこう!なんて思う時もあるし。

自信持ってコーデを組んでルンルンでInstagramに写真をあげた所、自分が思っていたより評価が悪く、それが自己に向けられた直接的評価かのように感じ落胆してしまう。とか。

僕もそうです。結構あります。

これらが決して間違っているなんて主張しません。皆さんそうだと思ってます。そして日常でも。

 

改めて考えてみると、自由って不自由さも生じますよね。

自由の定義は、「他からの強制・拘束・支配などを受けないで、自らの意思や本性に従っていること」

できているようでできていない。

できていないようでできている。

あべこべ。矛盾?ごちゃごちゃ。

ちなみに不自由の定義は、「自由にならなくて困ること」

 

わがままな僕たち_。

 

 自信がなく不安な毎日を送っている僕たち(僕だけ?)

だからこそ、「ファッションおいての自由」を紐解きたいですが、自由論は様々な論争を生じます。大きい括りでもある「自由において」の哲学でもそうです。

ドイツの哲学者ヘーゲル氏は、大きく、また不明確な「自由」を本質的に考えています。

 

そんな彼は言う。

自由というと、人はまず「なんでもやりたい放題ができること」とか、「あらゆる束縛から解放される事」といったことを思い浮かべる。

しかし、それは自由を自由の本質ということは決してできない。

それは単に、頭に思い浮かべられただけの現実にはあり得ない自由であるからだ。

人間は、だれもが多種多様な欲望をもつ。そしてまさにそれゆえにこそ、私たちはこれらすべての欲望を叶えて、「やりたい放題」ができることも、またこれらすべての欲望から「解放」されることも不可能なのだ。

 

時に私たちの欲望は対立する。

美味しいものを食べたい。だが太りたくはない。

人に愛されたい。だが自分を曲げたくはない。

夢を叶えたい。だが努力したくはない。

互いに矛盾し、対立する無数の欲望がゆえにこれらすべてを叶えることも、欲望の一切からも解放されることはない。

では、自由とはなにか。それは私たちが、様々な欲望の「制限」の中にあることを自覚しつつも、なおその制限を乗り越えた先に実感されるものである。

「欲望という諸制限の乗り越えの感度」

ヘーゲルはこれを"自由の本質"という。

 

皆さんいかがでしょうか。

僕はぐうの音もでないというか、すごく心にきました。

ファッションにおいても、そうでなくとも欲望という制限の中で感じる不自由感。だからこそのこの制限を乗り越えんとする自由への欲望。

 

ファッションあるいは、人間的欲望の本質は自由であるのかもしれないですね。

ヘーゲル氏は、社会の根本原理において「自由の相互認証」なんてこともいってます。

私たちがファッションに求める自由と、生じる不自由。

お互いの自由(本質的)なものを認めた上で共に探究していく。おもしろいですね。

 

自由は勝ち取るものであって、与えられるものではない。 -ブラック「語録」

 

私たちは日常(ファッション)的に戦いを虐げられている。そしてジレンマを感じている。しかし、制限化においての私たちの本気の遊び。魅せていきましょう。私たちにはそれができる。自由な囚人だから。

Cloth Wars-布戦争-

終わらないファッション。闘いの定かの声_

 

Mozzie